論文を読む:その2

皆様。
続きました。たまには論文を読んでいますコーナー2回目。

  • 神山秀昭「言葉の解放-『魔術士オーフェンはぐれ旅』の作品研究から-」(『学芸国語教育研究』14号、1996年)

「魔術士オーフェン」と言えば、秋田禎信の大ヒットライトノベルなわけですが、何を思ったか昨年、作者のホームページ『モツ鍋の悲願』の雑記内にて「あいつがそいつでこいつがそれで」と題して後日談が書かれました。懐かしさに駆られて読んでいたわけですが、登場人物の全員が「あいつ」や「こいつ」とかで語られていくので、途中で混乱します。これは読み直そう!と思ったのが間違いというか・・・はぐれ旅全20巻、無謀編全13巻を通勤途中の電車の中でとか寝る前とか、ただひたすら読み耽っていました。そのため何かあるたびに私の脳内では「我は放つ光の白刃」とかコールされていましたが、もちろん口には出していませんよ。脳内ですよ。

さらには『エンジェル・ハウリング』とか『愛と哀しみのエスパーマン』、『シャンク!!ザ・レイトストーリー』(ロードストーリーも)などと読み進めてしまいましたが、それは別の話。一先ずオーフェンについて誰か書いていないかなと調べてみたら、世の中広いもので論文がありました。

内容としては児童文学研究において小川未明作品に対する評価が、「死」を取り扱っていることによるネガティブなものから、そのようなタブーが崩壊している現状へと変化しているそうです。そのような中でも子供向けの作品で「殺す」や「死」といった言葉が連続して使用されるのはなかったが、数多く使われる作品として登場してきたのが「魔術士オーフェン」シリーズであると定義付けています。そして特にオーフェン作品のなかで、ボルカンがオーフェンへと放つ脅し文句を一覧化し、彼の言動はいわゆる子供の「ごっこ遊び」の反映であり、字面の暴力性からは乖離し「実行性を持たない形だけの決まり文句」であるとしています。そして作品内に暴力的な言葉が多用されることで批判が出てくるだろうが、子供にしてみれば「氾濫する情報の一つにすぎない」と定義付けています。

感想としては、児童文学研究はよく分からないのですが、児童文学=ライトノベル(というかオーフェン・シリーズ)という図式が果たして成り立つのかどうか。また暴力的な言葉が多用される作品の初発が果たしてオーフェンなのか、というか「氾濫する情報の一つ」としている以上はそのほかのメディア(アニメ・映画・マンガなど)との比較の上、オーフェン作品を歴史的に意義付ける必要があるかと思います。が、もう12年前の論文なのですね。当時は今日的な意義でのコンテンツという言葉もなかったわけですし、何より論文内で「ライトノベル」という言葉が全く使われておりません。その当時の研究状況はこうして把握できますが、学界における空気までは何となくしか分かりません。既存の学問枠組みにあるものを議論として繋げていかなければならなかったのかもしれません。とはいえ、この間に研究も色々と進展していったようにみえて、実は根本の部分ではまだ変わっていないのかもしれませんね。しかし変わったといえば研究状況より、オーフェンですよ。何より終わったと思ったオーフェンが復活しようとは!

これで終わりと思うなよ!―魔術士オーフェン・無謀編〈13〉 (富士見ファンタジア文庫)